さてみなさん、友だちはいるだろうか。わたしは胸を張って堂々とYESとは言えない。そうして「友だちってなんなんだ」という思春期のような問いを通り越し「いやまあ別に喋る人はいるし」みたいな適当な逃げに逃げる。逃げに逃げる?そう、逃げに逃げる。
そういえば友だちが欲しかった。
子どもの頃、友だちが欲しかった。なんでも話せる友だち、いろんなことを相談できる友だち、将来の夢を語り合える友だち。
もちろん、友だちはいた。恋愛の話もしたし、テレビ番組の話をしたりもした。でもそれでも友だちが欲しかった。相手にも友だちだと思ってほしかった。
そしてそのまま大人になった。
結局そんな友だちなんてできないまんま大人になった。いいのかそれで。このままで。
そうだ、思い出を捏造しよう!
そういうわけで、「あの頃友だちが欲しかったオトナ」であるあなたに捧ぎたい物語がある。それは阿部共実の「月曜日の友達」だ。この漫画を読んで、一緒に思い出を捏造しよう。大切な友だちと大切にしあう。そんな物語を追体験しよう!
導入部分を少し見ていく
月曜日が嫌いな少女水谷茜が変な少年月野と出会う
中学校に上がった女子水谷茜は、月曜日が嫌いだ。それは学校が始まるから。まだ慣れない中学校では、小学校までおもしろい話をしていた友達たちが、恋愛番組に夢中になりその話ばかりしている。放課後野球をしていた友達たちが部活や塾で忙しくしている。
さらに水谷家ではスポーツ特待で県外の高校に通う中学校でも有名な姉が月曜日に帰ってくる。そのことも水谷の心を重たくした。
そんなある月曜日、母親に姉と比べられて嫌になった水谷は家を飛び出す。
「なにひとつ気にせず考えず、動きたい走りたい 飛びたい叫びたい」
どこかないか、誰かいないか、とにかく体を動かして発散したい、そんな思いで街を走り学校まで行くと、同じクラスの変なやつとされている月野が校庭でカラーボールをぶちまけて何かをしていた。
やり取りの中で、月野にまで「変」と思われていると思った水谷は、思わず月野に思いをぶつける。
わたしってそんなに変なのか!?
恋に興味がないことは変なのか
女が体を動かしたいことは変なのか
わたしは何も変わってない。むしろ変わったのは周りの方だ
そしてそんな水谷に月野は言う。「別に変でもいいじゃないか」
その言葉に水谷は救われる。「嬉しい」と言った水谷に今度は月野がこう言う。
これらの月曜日、夜の学校で会ってくれないか。
「超能力が使えるので特訓したい」と言う月野は本当に変なやつだった。
何はともあれ、こうして二人は月曜日の夜に二人で会うようになる。
友達になる
二人の関係は二人の秘密である。したがって学校ではお互いに知らんぷりをして過ごす。その一方で月曜日の夜にどんどんと二人の距離は縮まっていく。
あるとき月野は、あることをきっかけに自分の不甲斐なさを責め、水谷に謝る月野に水谷はこう言う。
私たち 友達になろう。
楽しいことやつらいことをわけあって 一緒に生きていこう
こうして二人は「友達」になって物語が進んでいく。
まぶしいくらいの青春を追体験できる
まず、「月曜日の友達」の大きな魅力は、この二人がまぶしいくらい青春の只中にいることだ。青春の只中だからこそ、お互いの未熟さによる誤解や勘違い、葛藤も生まれる。なぜならそれこそが「青春」だから。
自分が「青春」を感じた最後の瞬間はいつだろうかと考える。そんなもの分かるわけがない。青春時代には一時的にふと「ああ今青春なんだなー」とか考えたことはあるけれど、それがどこからでどこまでかとかは考えなかったし、夢中になっている最中に「青春青春」と思ったりはしない。
けれど、今思えばもっと青春を大切にしておけばよかった。
でも大丈夫、今この物語で青春を追体験しているから。
そう、この漫画を読むことで、わたしたちは「あったはずの」「あったかもしれない」「いや自分にはありえなかっただろう」青春を追体験することができる。痛み、苦しみ、失望、絶望、温かさ、柔らかさ、優しさ、かけがえのなさ。それら青春に起こるべき素晴らしいことを、一度に体験することができる。
青春の捏造である。
大切な友達がいた気になれる
二人がさまざまな出来事を経過して友情を深めていく様が、決してなだらかな道のりじゃない部分まで含めて丁寧に描かれているので、まるで自分に大切な友達がいて、いろんな葛藤を乗り越えて、さらに特別になっていった……というような錯覚を与えてくれる。
友情の捏造である。
思い出の捏造を可能にするもの
こうした青春や友情など、過去の思い出の捏造を可能にするものは、こうした水谷のモノローグだ。
水谷は読書好きの物書き志望なだけあって、自分の心の声をきちんと言葉にして認識する。そのモノローグが丁寧に綴られていくので、読者はそれを追体験しやすいのだ。
わたしたちは言葉で世界を認識する。と思いきや、大抵の人はそうではない。もちろん世界を定義するときには言葉を駆使せざるを得ないが、普段何かをするとき、しようとするとき、何かを受け取るとき、受け入れるとき、それをいちいち言葉にしたりしない。
けれど水谷は違う。言葉で世界を認識し、言葉で心情を意識する。それがモノローグとして丁寧に描かれるので、わたしたち読者はまるで自分がそういう場面に出会って、そういう風に感じているかのように認知するのだ。
この漫画を読んであの頃の自分を抱きしめよう
わたしたち読者は、必ず水谷を好きになる。そのように描かれているからだ。水谷の素直なセリフ、かと思えば一人で考えすぎる傾向、悩み。それらを通じて絶対に好きになる。
そうしてこの漫画を読み終わる頃には、読者は水谷を、つまり捏造された過去の自分を抱きしめたくなる。それが捏造された記憶であれ、自分は自分だ。自分を思い切り抱きしめよう。それも、物語の効用である。
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今日も今日とて積読をつんどく(真冬)
— mah_ (@mah__ghost) 2024年5月31日