MENU

【再訪】アーティゾン美術館「クロード・モネ —風景への問いかけ」

昼過ぎに、Xのこんなポストをみた。

アーティゾン美術館のモネ展には、初日の朝イチで行った(なので激混みでは無かった)のだが、もう一回会期中に訪れたいと思っていた。

nagainagaiinu.hatenablog.jp

しかし、そのあと超人気な美術展となり、激混みで碌に絵を鑑賞できないということを聞き、再訪することができないでいた。そこにこのポストである。行かないわけには行かない。

今日の東京には冷たい雨が降っていて、気温も11℃と最近としては寒い。なので一日中家から出る予定もなく、部屋着でふんふんふふんふふんふんふふんと鼻歌を歌いながら録画していたソーイング・ビー8をいっぺんに見ていた。

ソーイング・ビーとは……ってその話はここでするもんでもないわ、でも、マーカスが脱落したところまで見て悲しみ。あの吹き替えのせいだと思うけれど、いかにも陰キャでとても好きだったのだ。

はい、で、そんな一日でもよかったのだが、せっかくの一日だ。今日が一番若い日だ(この言葉好きじゃない)。出かけない理由があろうか。いやない。いや雨。だがしかし。

ということで、急遽着替えてアーティゾン美術館へ行ってきた。

アーティゾン美術館「クロード・モネ —風景への問いかけ」

www.artizon.museum

二回目の来訪であるので、混雑している最初の方をすっ飛ばし、いきなり第二章へ。雪。

白い雪を描くとき、それを見た人が空や周りの景色が思い浮かぶようではないとダメだというようなこと(大意)をルノアールが言っていたらしい。そのとおりで、モネの雪の絵は、そこに差し込む光の描写がわたしは好きだ。

「かささぎ」は本展の見どころの一つだけあって、じっくり見て写真を撮っている人が多かった。やっぱりグッとくるよな。光溢れる雪の中にポツンと左に配置されるかささぎ。雪に当たる光の表現ももちろんいいのだけれど、影がすごくいいと思う(語彙力)。光が奥からこちらに向かって差しているので、手前側には段差や木の影ができるのだけれど、その色がすっごいすっごいいい。ずーーーーっと見ていたい気持ちだったけれど、この絵はとても混雑していたので大人しく先へ進む。

ではここからは、わたしが個人的にグッときた絵をパッパと並べていく。

トルーヴィル、ロシェ・ノワールのホテル / クロード・モネ

「モネ」と聞いて日本人(少なくとも)が思い浮かべるような配色ではないのだが、せいせいとした晴天(適度な雲と空のコントラスト)と、やはり影の表現にグッときた。
印象派って、みようによっては超適当に描いているように見えるのだが(顔がベタっと置かれた絵の具だったり)、これも例外ではなく、旗よくない?最後に上から足したのかなっていう白が風になびいている旗に適度な重さを与えている。

光景が目に浮かぶようだ本当に。

サン・ラザール駅 / クロード・モネ

これはいかにもモネらしいと日本人なら思っちゃうような絵だ。一番日本人が好きな睡蓮のような自然ではなく、汽車と駅舎(韻を踏んだ)という人工物の絵。だけれど、モネらしさがあって、心をグッと掴む。こういう絵が描けたら、次なんか描けないんじゃないかって自分だったら心配になっちゃいそうな名画だと思う。人工物を淡い線で表現して、やはり煙の影の表現がとても好きだ。青い。人は相変わらずべたっと置かれたインクで、こんな絵の登場人物になれたら幸せだなあとか思ってしまうなあ。

石炭の積み下ろし / クロード・モネ

この絵は横浜の運河のようで、なんか嬉しくて撮ってきた。向こうが光でこっちが影っていうのが得意だったのかな。水が一色ではなく(当たり前だけど)、こちらの水面まで光がうっすら差し込んでいて、遠くの水面は透明感があるのに手前の水面は少し濁った感じもあって、同じ水なので見え方だけの差なのだけれど、見え方だけの差を適切に表現できることがすごいよなあと思う。

横浜っぽいんだよなー。好きだ。

画家の肖像 / クロード・モネ

自画像。なぜ画家は自画像を描くのかと思ったのだが、子どもの頃美術の時間に自画像を描かされたから、そういうもんなのかもしれない。絵を描くのは多分最大の自己理解の手段の一つで、その最たるは、自画像なのかもしれない。

ヴェトゥイユの解氷とラヴァクールの風景 / クロード・モネ

曇天。遠くの岸がふぅわりと浮かぶ。そこにはかすかに光があり、それを覆う空にもピンクや青が使われ、曇りの中にも少し明るさが表現されている。手前の厳寒を思わせる氷の塊と、奥の氷が溶けた川が、なんか未来に向かって希望があるみたいな感じに見えて胸がぎゅっと締め付けられた。

氷塊 / クロード・モネ

同じ氷の川を描いているのに、晴れていて空が淡く光っている。氷がそれを反射して、いるから、氷の上は白く、景色は映っていない。明るい季節がきて、氷が溶けていって、木々も淡い色で表現されている。あまりの綺麗さに立ち止まってしまった。

戸外の人物習作-日傘を持つ右向きの女 / クロード・モネ

今回の展覧会のメインビジュアルの作品。習作ってこんなに気合いの入ったもの?近寄ってみると、焦茶の低木の枝のうねうねが「なにこれ?」って感じに見えるのに、遠目に全体を見るととてもうまい表現であることがわかる。ぐぬぬ。風が強く吹いていて、スカートやスカーフが強くたなびき、雲も流されているようだ。こちらを見ている女性の表情はわからない。雲に映った光のピンクと、女性のきている白い服の反射する光のピンクと、低木の花のピンクが一体感を演出していて、だけど木の葉の緑があるから目線が流れちゃわない。ぐぬぬ。

霧のテムズ川 / クロード・モネ

モネはロンドンが好きだったそうだ。なぜあんなご飯のまずい年中曇ってる陰鬱な街をと思わなくもないのだけれど、多分服装とか建物の外観とかが好きだったんじゃないかな。とくに国会議事堂が好きだったらしい。
霧が深くてなにも見えない。遠くに見えるのはそのビッグベンなのだろうか。なにが起こってるかまったくわからないけれど、こんなふうにきっと見える景色なんだろうな。見てみたい。

ノルウェー型の舟で / クロード・モネ

反射が綺麗すぎる……!!!釣りをしているようだけれど、全員女性に見える。ヨーロッパでは女性も積極的に釣りをするんだろうか?船の向こうに見える森の葉っぱに反射する光も素敵だ。これ水に映った三人を見ているだけでグッとくる。こんな絵描ける?いや描けるわけないんだけれど、すごいなあと思った(語彙力ふたたび)。

睡蓮の池、緑のハーモニー / クロード・モネ

モネははじめ、睡蓮をただただ観賞用に育てていて、絵に描くつもりはなかったらしい。この家に住んで10年経ってから睡蓮を描くようになって、以降睡蓮だけを描き続けた。なので国立西洋美術館の常設展示でもモネの睡蓮は観れるし、世界中のいろんなところで多分みることができる。

しだれ柳の間から差し込んだ光。鬱蒼とした木々の中の池の水は決して澄んだ青ではない。そこに浮かぶ睡蓮の葉や花に落ちる光。橋も光に照らされて、やはりこちらがわが影なんだよな。手前側が光源の作品とかないのかな。

しだれ柳 / クロード・モネ

晩年に視力を失ったモネには、あの素敵な庭がこんなふうに見えていたのだ。若干ホラー味がある作品で、それは人生の最後はホラーなんだって言われてるみたいで見る人はドキドキしてしまう。池もまったく綺麗な水面はなく、黄色。でも上から差す光は変わらない。いや変わってるんだけど、光はいつも空から、向こうからきているなって。それがモネの絵なんだなって本当に思わされる。

以上です。

というわけで、雨、平日、という好条件だったにも関わらず、午後だったばかりにかなり人も多かったけれど、みんなの目的の「かささぎ」の後は、章の導入の説明文のところがボトルネックになっている以外はそこそこゆったりと鑑賞することができた。好きな絵だけを観て歩いていたので、かなり飛ばし飛ばしではあったけれど、行ってよかった。雨、平日、午前、となるともっと空いているようなので、行ける方はぜひ。

モネ好きは絶対行って欲しい展覧会だ。モネモネモネとモネが永遠に供給されていく。モネしばらく結構です、印象派もういいです、っていうくらい。

ぜひ!

わたくしからは、以上です。

家に帰ったらZOZOが来ていたのでさっそく子猫に箱を供給してみた。

箱猫

mah_(星村) (@nagainagaiinu.bsky.social) 2026-03-03T10:00:09.021Z

bsky.app

www.artizon.museum

 

 

三菱一号館博物館「トワイライト、新版画 ―小林清親から川瀬巴水まで」

旅行用のリュックを新調することにした。

前に使っていた旅行用のリュックは夫の会社カバンのおふるで、少しくたびれているのと(とくに革の部分にダメージがあるわけではないが)、なにしろ何年も毎日ときには海外出張にも連れて行かれていたリュックサックなので、なんか背面やショルダーのパッドに汗が染み込んでると思うと怨念のようなものを感じてしまい、なんか買い替えたかった。

今週金、土で一泊旅行に行くのだが、そのためだけに買い替えるのもなあとは思った。しかし、ゴールデンウィークに2泊3日の旅行をすることに決まったこと、夏にも多分大阪へ行くこと、普段の買い物に使えるリュックをそもそも新調したかったこと(今使ってる昔通勤で使うために買ったポーターのタンカーのリュックサックが現在7万5千円と知り、こんな雑に扱っていいカバンじゃなくなってるぞと思ったため)、そんなことがわたしの背中を後押しした。

それで色々調べてTHE NORTH FACEのホットショットというリュックサックにすることにほぼ決めたのだが、実物をみたいということで新丸ビルにある「THE NORTH FACE 丸の内」に行くことになった。

そこで、それだけを目的に丸の内まで行くのもなんだよなあということで、ついでに三菱一号館博物館へ行くことにした。

三菱一号館博物館「トワイライト、新版画ー小林清親から川瀬巴水まで」

現在の三菱一号館博物館の展示は、「トワイライト、新版画ー小林清親から川瀬巴水まで」というもので、江戸時代後の浮世絵後の浮世絵(西洋画の影響を受けている)、版画、みたいな展示だ。

mimt.jp

なお、小林清親も川瀬巴水も知らない。
しかし……出会ってしまったな、小林清親に。

小林清親は、明治の浮世絵師で、最後の浮世絵師と呼ばれている。

今回の展示は写真が撮れる部屋が決まっており、もっといろいろグッとくる版画はたくさんあったのだが、ほい。

不忍池畔雨中 / 小林清親

浮世絵なのに遠近法という。いやこれは、単に蛮族の地、上野に在住する身として撮らねばならぬと思ったので撮ってきただけだが……。

不忍池がこんな時代から蓮池だったのかという驚きと、和装なのに洋傘とリュックという出たちが面白くて、こういうのって明治の文明開花直後の専売特許な風景画だよなあという感慨があった。

大川岸一之橋遠景 / 小林清親

撮れるもののなかで一番気に入ったのはこれだ。
この光の表現がすごかった。本来浮世絵でこういう描き方をすることって無いはずで、もうちょっとパキパキした印象になるのだが、月の光が優しく世界を包み込む。月明かりに照らされた人力車が影として描かれ、もうあなた、枕草子にこの様を見せたらどう表現するんだろうと楽しみになるような、そんな一枚だ。

これ順序が逆なんだけど、この時期の浮世絵やいわゆる新版画って、ゴッホ味がある。逆で、ゴッホが浮世絵の大ファンだったので影響を受けているのだけれど、なんか面白かった。

浅草蔵前夏夜 / 小林清親

これも光と影のコントラストがすばらしい。っていうかこの辺も地元なので映してきたっていうのもあるんだけれど、なんかやっぱ少しゴッホ味がある。全然違うけど、なんか根底に同じものを感じるのだよなあ。うーん。わかってくれる人いますか!まあさっきも書いたけど矢印が逆なのは知っている。

今回は以上である

ということで、いやー出会ってしまったな、小林清親に。という回。川瀬巴水などの作家も紹介されていたが、圧倒的小林清親である。

川瀬巴水まで行くと、「ああ浮世絵ではないよな」って感じになる。まあ、新版画を名乗ってるくらいなので別に本人たちも浮世絵をやっているつもりはないのだ。川瀬巴水などは「広重なんて追随する気ないし、どっちかっつーと小林清親が好きだ(大意)」というようなことを言っていたようなので。まあ、いい趣味してる。

それと川瀬巴水が三菱の岩崎邸別邸の風景画を手がけており、「金持ちは自分家を題材にした風景画の企画なんか自分でするのかー」と面白かった。

浮世絵や版画を見るたびに、「版画やりたいなあ」と思うが、個人が趣味でやるにしては場所を取るし、木を買ってきて絵を描いて転写して彫刻刀で掘るなんてこと無理なので、まあ子猫が落ち着いたらまた切り絵でも始めましょうかねと思った。まずは絵の練習なんだけどね^^

 

わたくしからは、以上です。ぜひ行って小林清親を浴びてきてほしい!

 

mimt.jp

↑ツイッタもよろびく↑

たばこと塩の博物館『片平孝写真展「塩の旅 ~地球の塩の現場に立つ~」』

「メディア芸術クリエイター育成支援事業成果発表イベントに行きたい」ある土曜日晴れ19℃予想の日(つまり昨日)、夫がそう言った。そしてわたしはこう返した。「こんな晴れた日に外ブラブラしないでどうすんだ」

われわれは亀戸天神に向かうバスに乗り込んだ。隅田川を渡って、バスはどんどん進んでいく。都バスが飛ばす……失礼しました。

というわけで、亀戸天神に到着。目的は梅の花だ。
亀戸天神では現在「梅まつり」が催されている。門前町も盛り上がりを見せてる……って梅全部散ってるじゃん。

ということで、しょんぼり笑いながら亀戸天神を進んでいくと一本だけ満開の木が見えた。

これで面目は立った。梅まつり編、完。

てなわけでお参りもせず亀戸天神を南から北へ通過した。いいのだいいのだ。亀戸天神の本領発揮は藤棚だ。昨年はこれもまた遅すぎて枯れ散らかした藤の花を眺めることになりかなしみを覚えた。今年は早め早めに行動しようと思う。というか、藤の開花が例年早くなってるのが悪い。つまり温暖化が悪い。ひいては近代化が悪い。自然に帰れとルソーは言った。自然に帰ろう。

帰れない。ごめんなさい。

亀戸天神を通過したとは、徒歩で「たばこと塩の博物館」へ向かう。

たばこと塩の博物館『片平孝写真展「塩の旅 ~地球の塩の現場に立つ~」』

たばこと塩の博物館は、スカイツリーの近くにあるのでスカイツリーに来た人はついでに寄ってみるといいと思う。

たばこと塩の博物館は、JTが運営する博物館で、かつて専売品であった「たばこ」と「塩」に焦点を当て、その歴史と文化を紹介するために作られた博物館。かつては渋谷の公園通りにあったが、2015年に墨田区に移転したらしい。

この博物館について|たばこと塩の博物館

200円という超格安で、結構楽しい。

常設展については、下の記事の後半で触れているのでそちらも参照されたい。

nagainagaiinu.hatenablog.jp

さて。

今回の目的は、片平孝写真展「塩の旅 〜地球の塩の現場に立つ〜」だ。

現在の特別展 -片平孝写真展「塩の旅 ~地球の塩の現場に立つ~」|特別展|たばこと塩の博物館

片平孝は、塩の写真家として、塩の現場を撮りに撮りに撮りまくってきた人だ。ときには、ラクダを借りて即席のキャラバンを編成して、塩の採掘現場に行ったりもしていた猛者だ。

そもそも、塩田以外の方法で塩を入手するには、塩が結晶化した場所に行って取ってくるしかない。それは極めて危険な場所に行ったり、あるいは炭鉱のように採掘坑を掘って採取したりすることを含む。

砂丘を越えるハウサ族の塩キャラバン / 片平孝

これは1972年に、ニジェールで撮影された写真。キャラバンはラクダに採取した塩を乗せ、砂丘を渡っていく。夜間に睡眠を取るとラクダが眠って動かなくなってしまうということで、夜通し運び続ける。途中で熱中症になった仲間がいれば、担いで連れていく。なぜなら、持っている水に限りがあり、つぎに給水できる場所まで期日通りに辿り着けなければ即、死だからだ。

なお、2026年の今でもそうなのかは調べたけどちょっと分からなかった。他の地域では、砂漠を走行できるトラックが参入したことで、ラクダで運んでいた地元の部族がダメージを喰らっているという情報があったので、ここも同じなんじゃないかと思う。何しろトラック一台でラクダ50頭分の塩を運べるらしく、そりゃトラックには勝てない。

こうした小規模な部族が生き残る糧だった塩が、部族で独占できなくなったとなると、この部族たちはまじで何を糧に生きていけばいいんだろう。何百年とか千何百年とかの間、塩のみで生計を維持していたのであり、それが強すぎたのでおそらく他の産業は無いだろう。うーむ。なんか、みずほファイナンシャルグループ事務職5,000人削減みたいな話といっしょかもしれないけど、削られる方に思いを馳せてしまうな。

海になろうとする塩の湖、アッサル湖の渚 / 片平孝

これは、大地が裂けて陥没したという、ジプチ共和国のアファール三角地帯にあるアッサル湖。海抜マイナス150mだということ。

グリーンの湖面と結晶化した白い塩のコントラストがとても綺麗だ。実物を見てみたいが、アフリカは怖くて、海外スキルゼロのわたしにはきっと訪れる機会はこないだろう。写真で満足しようそうしよう。

エーア塩湖の湖面を覆う塩の結晶 / 片平孝

カメラで撮ったキャプションが手ブレで何一つ読めなかった……。

エーア塩湖はオーストラリアの砂漠地帯にある広大な湖で、雨季にのみ、しかも8年に1回くらいしか一面の湖にはならないらしい。つまり、たぶん、だいたいいつもこんな感じで塩が湖を覆っているんだろう。

なんて美しいんだ。

どうでもいいけど、塩を作る時、採取する時って裸足じゃないから、一回足で踏まれてるものが納品されるんだよなーとか思うと塩が途端に不潔に感じられる。いや塩だから多分全然平気なんだけど、これは日本人(育ちと国籍)あるあるなんだろうか。

わたしそばとかうどんとかを裸足で踏む(布とか紙とかビニールは介すが)のもちょっと苦手なんだけど……とか思っちゃうの。家で岩塩愛用してるけどだって圧倒的にうまい。

塩の棚田・マラスの塩田 源泉付近から見下ろす / 片平孝

これは南米。インカ帝国が支配するより前から塩を供給してきたとされるマラス族の塩田、谷の急斜面作られた棚田の写真だ。一応言っておくと、棚田というのはいわゆる段々畑のことだ。

棚田と言われて思い出すのはなんだろう。と思って日本の棚田を検索したら、ライトアップとかしてる棚田があるらしい。それは違うと思うぞと思うけれど、自治体は少ない観光資源を昼も夜も使いたいんだから、まあ仕方ないよなとはなる。けど情緒ってもんがないよ!

 

さて、写真を撮ってきた写真(謎の文章)はこのくらいだが、地域別にたくさんの写真が展示されており、「ああ、塩って本当に大切でかけがえのないものなんだなあ、まあ塩分が無いと死ぬもんな人」と塩と部族と人類に思いを馳せ、楽しんで鑑賞することができる。

ちなみに我が家の塩はピンクソルト(ヒマラヤ岩塩)だがなぜだかは不明。多分美味しそうという理由だが、実際に美味しい。飲酒する人なら、この塩だけで一杯イケるくらいだ(それはただの飲兵衛)。

以上です。

まあ、たばこと塩の博物館は常設展示やタッチパネルの展示も面白いから、ぜひ行ってみるといいと思うというお話。そしてどうせいくなら、今の特別展は結構よかったので、スカイツリー方面に御用の方はぜひとも。

わたくしからは、以上です。

 

www.tabashio.jp

現在の特別展 -片平孝写真展「塩の旅 ~地球の塩の現場に立つ~」|特別展|たばこと塩の博物館

 

スカイツリーもよろしく!

 

東京オペラシティ アートギャラリー「アルフレド・ジャー あなたとわたし、そして世界のすべての人たち」

蛮族の地に起居しているため、23区のウェストサイドに行くことは少ない。頻繁に訪れるのは丸の内や日本橋といったエリアだ。
とはいえ新宿もISETANや高島屋があるくらいで、蛮族の地の要素も強い。年代も人種もごった煮と言った感じで、粗野な感じもある。いや、そのISETANや高島屋があることが重要なんだ。なんなら小田急もある。駅ビルにもLUMINEが入っている。いやいや、蛮族の地にも松坂屋があるじゃないか。うん、しかないね。

ということで今日は新宿というか初台のオペラシティに足を伸ばした。時間が経つにつれ気温が上がっていき、海外勢(主に白人層)では半袖の人もいたりする。さっきすれ違った人は半袖なのにスキー板をかついでいた。うーむ。どっちなんだ。

アルフレド・ジャー あなたとわたし、そして世界のすべての人たち

オペラシティでは今、アルフレド・ジャーの作品展が行われている。全部で21作品しかない、空間をぜいたくにつかった展覧会だ。

原題は「YOU AND ME AND THE OTHERS」だから「あなたとわたしとそのほかの人たち」みたいな感じだと思うんだけど、アルフレド・ジャーの写真から感じ取れる思想みたいなものを鑑みて「世界のすべての人たち」にしたのかな。

「OTHER PEOPLE THINK」という作品の邦題はキャプションを読むと「彼らにも考えがある」となっているけど、これもわたしは「ほかの人たちにも考えがある」でいいんじゃないかと思うんだけど、「OTHER」で「OUR」を除外してるから、その立場からの視点で「彼ら」にしたのかなあ、分からんけど。

ちょっとなんか「OTHER」の訳し方に不満があるようだ、わたし笑

でもこれ難しくて、アルフレド・ジャーはチリの出身で、北米と南米の在り方というものに強い関心を抱いて作品を作っていたから、「彼ら」と訳したのかなあ。
そもそもこの作品(後ろの「OTHER PEOPLE THINK」の部分だけね。手前は「今は火だ」という作品)が、作曲家ジョン・ケージの生誕100周年を記念して制作されたもので、ケージが15歳のときにハリウッド・ボウルでの講演のために描いた演説文へのオマージュで、「Other People Think」っていうのはその演説文の中の一文らしい。

ここでは、北米と南米のあり方について話してるから「彼ら」と訳するのが適切なのかなあ。なんかもにょもにょするけど、もっと広い視野がありそうで。

これとか痛烈に「自分たちだけアメリカぶってんじゃねーぞ」と言ってるんだけれど、南米の人たちは、「自分たちもアメリカだ」って主張したいのかね。北米にこきつかわれて、搾り取られて、排除されてきた歴史があって、それでも「ラテンアメリカもアメリカだ」っていうアイデンティティなのかな。なんか不思議だなあとか思ってしまう。

中でも「サウンド・オブ・サイレンス」という作品が心に刺さった。
ピューリッツァー賞を取ったケヴィン・カーターを題材にした作品。ケヴィン・カーターは多分ピューリッツァー賞の中でも有名な、飢餓に苦しむ幼児の後ろに一羽のハゲワシが立っている写真↓

www.asahi.com

を撮った人。結構壮絶な人生を送っていて、その中でようやくついた写真店の仕事からカメラマンにジョブチェンジして写真を撮っていた。このアングルでシャッターを切ったこと、「なんで助けないんだ」と批判が集中し、ケヴィンは塞ぎ込んでしまう。
実際には写真を撮ったあとすぐに追い払ったのだけれど、もちろんそんなことは写真を見た人には分からない。

その場ですぐに助けることと、記録を取り世界に広めること、歴史に残すこと、どちらが社会的意義のあることなんだろう。それでいったら記録写真家は全員廃業になってしまう。

そんなことを考えていた。

そしてアルフレド・ジャーは日本とアメリカの顕在的な立場の差についても作品を制作した。「明日は明日の陽が昇る」という作品だ。

直接的ぃ!

さらに、原爆ドームの上にドローンを飛ばして作成した「ヒロシマ、ヒロシマ」という作品があり、USAに対する怒りや、自分もしかしまた加害者にもなりうるのだという罪悪感や、いろんな感情が沸き起こった(写真なし)。

いやー空間を贅沢に使ってることもあいまって、よい体験ができたと強く感じた。普段意識していない、いや意識しないようにしているアメリカ(USA)への嫌悪感とか抵抗感とか掻き立てられたし、だけど、「OTHER PEOPLE THINK」を「彼らにも考えがある」と訳しているように、奴らにも考えがあるのだろうという視点も忘れずにいることができた。

思想的な作品ってあまり好きにならないのだけれど、これらの作品は、しつこいけど空間を広く使ってるから押し付けがましく感じないし、こちらに考える余地を残してくれているのでそこもよかった。

北米コンプレックスは世界中の北米人以外の全ての人が持ってるものだと思うので、すべての人におすすめの展示だと思います。

www.operacity.jp

 

 

【読書感想】喫茶おじさん / 原田ひ香

 

 

バツイチ無職おじさん松尾純一郎。娘からも前妻からも現妻からも同期からも元バイトくんからも喫茶教室の同期からも「あなたは何も分かってない」と言われるようなバツイチ無職おじさん。

会社ではうだつがあがらず、55歳で課長止まり。それも部下に教えてもらうことのほうが多く、「課長はうだうだ言わないからやりやすいですよ」みたいなことを言われる始末。会社が早期退職を募った時、いろいろ勘案して手を挙げた、バツイチで無職のおじさんだ。

あるとき、娘の亜里砂の就職相談に乗ったとき、適切なアドバイスもできず「亜里砂みたいな良い子、どこの企業もほっとかないさ」などと言いガッカリされ「お父さんって、本当に何も分かってない!」と怒られた。その次の日、自分が理想だと思っていた喫茶店で知ったかぶりをして店員に陰口を叩かれ、なぜか勢いで電車に乗ってしまう。そして、なんとなく「これから、趣味は『喫茶店、それも純喫茶巡り』にしよう」と思いつき、純喫茶を巡ることになる。

純喫茶を巡っている間に、いろいろなことが起こる。もうそれはいろいろなことが……

 

<ネタバレあり感想>

これから純喫茶巡りを趣味とする男が、まさか早期退職で上乗せされた退職金3,000万を喫茶店開業によって全部溶かしていた過去があるとかびっくりした。順序が逆だろうと。

で、結局この純一郎は、会社でも大した成績を残せず、それなのに妻に子育てや家のことを任せ、自分のことも任せ、自分勝手に生きてきた人間なのだ。「俺、そんなに悪い父親でも、夫でもないと思うんだけどなあ」とか思っている。

でもこういうおじさん描写って今時どうなんだろうねと思う。リアルリアル!っていうほどもうリアルじゃない気がする。それとも世間の55歳ってまだこんな意識で生きてるんだろうか。

「何にも分かってない」というあらゆる人からの指摘は、「恵まれた環境に無自覚に甘えて好き勝手やってる」ということへの批判であったり憧れであったりする。で、本人はそのことに気づかず、「なんでそんなことを言われるのかな」と不思議に思っている風である。

しかし純一郎は素直だと思う。穿ったところがないし、純喫茶巡りを趣味にすることにして、本当に趣味にしてコーヒーやサイドメニューを味わっている。本当にある喫茶店が名前を伏せて用いられているが、そのコーヒーやサイドメニューへの解像度も高く、その描写は読んでいる者の目の前にそのセットが浮かんでくるようだ。

素直で無頓着で周りの人に気を使わせているのに気づかずに、恵まれていることに気づかずに、自分はうまくやっていると思っているから、質が悪いというのだろう。しかし。

それにまして妻の亜希子だよ、亜希子。純一郎とは社内不倫の末結婚するわけだけれど、「月五万くれてデパートで買い物させてくれれば、主婦として文句を言わず仕事をする」みたいなことを言っていたのに、しまいには「自分一人になりたい、自分の足で立ちたい」みたいなことを言って離婚を切り出してくる。

ひどい。50歳ということは、1975年生まれ。バブルの最中に子供時代を過ごしたとはいえ、自分が就職した頃にはバブルは弾けている。なのにこんな世界観で生きてる女がいたとは驚き桃の木……(最後まで言えよ)。財産分与もひどいものだった。

一番いいやつだったのは、再就職を斡旋してくれた同期と、前妻の登美子だ。登美子は「あなたは何もわかってない」と言いつつ、そのわけを最終的には話してくれてナポリタンの作り方まで教えてくれる。

そして亜希子が自由になりたがったのと同様、離婚をすれば自分も自由だということに気づいた純一郎は、もう一度喫茶店をやりたいという夢を実現する。今度は浮き足だった適当な老後計画ではなく、少し地面に足のついたやり方で。

この喫茶店もうからないんだろうなーとか思いながら最後まで読んだのだけれど、でもいいラストだったな。

みんなうまくいくといい。亜希子以外。亜希子には痛い目を見てほしい。そんなに世の中は甘くない。

それと、自分もその年齢に近づいていることに思いを馳せた。42歳なので8年後には50歳で、作中にも出てきた「今日が一番若い日」という言葉は嫌いな言葉なんだけど実際その通りで。
それにしても、人生100年時代に今後50年も生きなくちゃいけないという現実に打ちひしがれる。あと50年あれば今日じゃなくて明日でもいいじゃん、と夏休みの小学生みたいなことも思ってしまうけれど、純一郎の純喫茶巡りではないけれど、何か夢中になれることを見つけたり、喫茶店開業のように何かチャレンジングなことをしてみるべきなんじゃないかとか、思う。

 

東京都美術館「スウェーデン絵画 北欧の光、日常のかがやき」

スウェーデン絵画を見にいった

春うらら。この蛮族の地にも温かな日差しが降り注ぐ。軽装と重装(とは言わない)の老若男女が入り乱れる上野公園を横切り、東京都美術館へ。今日は「スウェーデン絵画」という未体験ゾーンへ突入を試みるのだ。

www.tobikan.jp

スウェーデンといえば北欧女子の憧れの地。しかしオーサの本を読むといいことばかりではないよなと思う。白夜と極夜があり、精神に不調をきたす人もそこそこいると聞く。やっぱ人間は朝寝て夜起きるんだから、太陽も朝上がって夜には沈まなくちゃダメだよなとか思いながら、都美の入り口へと階段を降りていく。

どうでもいいけれど、東京都美術館の入り口は地階にある。エスカレータか階段で降りていくわけだけれど、「これから美術展へ行くんだ」というワクワク感が結構湧いてよい。都美は外を下に降りていくけれど、そういえば国立西洋美術館は建物の中を地階に降りるよな、あれもなんかドキドキするんだ。とか言ってみて、美術館は地階から始まらなくちゃダメなの?と一瞬思うかもしれないが、そんなことないので安心されたい。大抵は地上である。

はい、では本題。

今回の展示は、

本展はスウェーデン国立美術館の全面協力のもと、19世紀末から20世紀にかけてのスウェーデンで生み出された魅力的な絵画をとおして、自然と共に豊かに生きる北欧ならではの感性に迫ります。

東京都美術館開館100周年記念 スウェーデン絵画 北欧の光、日常のかがやき|東京都美術館

とのことで、フランスで修行した画家たちが、フランスの風景を描き、また、スウェーデンに戻りスウェーデンの日々の暮らしや景色などを描き残した、その作品たちが並んでいた。

とくに気に入った絵

いいなと思った絵を少し。(ちなみに、B1Fは写真不可、1F,2Fが1枚を除き写真可)

キッチン / カール・ラーション

カール・ラーションの自邸のキッチン。これは美術展では珍しく水彩画で、とうぜん紙に書かれている。ラーションが自邸を描いた水彩は全部で20くらい(たしか)あるらしいのだけれど、紙なので損壊を鑑みると無闇に移送することができず、今回このスウェーデン絵画展は巡回で日本を回る上で、各地点1点ずつだけ展示することになったということだった。東京はこの「キッチン」。

他の作品は、約3分の映像作品で見ることができる。個人的には「片隅で」だっけな、男の子がソワソワ座ってる絵とかが可愛くてよかったし、おばあちゃんの絵には愛情を感じたし、水彩ならではの緻密な線がとてもよいと思った。

音楽を奏でる家族 / アンデシュ・ソーン

こういう機会って無いよなと思った一枚。自分が音楽を奏でられるとして、家族団欒の場で披露することって多分無いよなーと思った。昔はなのかヨーロッパがなのか果たして我が家以外の日本の家でもそうなのかはわからないけれど、こうして家族が集まる時間があって、そこで誰かが何か得意なことを披露してみんなで鑑賞してっていうのすごくいいなと思った一枚。

太古の時代 / グスタフ・アンカルクローナ

綺麗すぎるー。
スウェーデンは緯度が高いので、朝と夜にこうした薄明るい時間が長く続くらしい。これは日の出なのか日の入りなのか。日の入りだといいなーとか勝手に思う。
海に浮かんでいるのはヴァイキング船。ヴァイキングってゲームとかでしか見たことないけど、やっぱ怖モテの「街のゴロツキ」みたいな見た目なんだろうかとか想像力を掻き立てられる。ヴァイキングの行動時間は昼なんだろうか、夜なんだろうか。財宝を見つけることって実際あったんだろうか。悪い奴らなんだろうか。孤児を拾って育てたりしてるんだろうか。おっちょこちょいなところがあったりするんだろうか。

などなど。

水の精(ネッケン)/ アーンシュト・ヨーセフソン

これは写真が下手なの!わたしこれ今回の美術展で一番いや二番目に綺麗な絵だと思って写真撮ったの!すごく神聖で、でも人間の形してるから親近感もあって、綺麗な絵だったな。またこの絵を観に行きたいかも。

最後の人類 / カール=フレードリック・ヒル

展覧会にはヒルの他の絵もあって(写真に撮って来なかった)、普通にスウェーデン絵画の系譜の上に立つ綺麗で綺麗な絵だったんだけど、この絵は、精神に不調をきたしたヒルが描いた「最後の人類」という作品。不安そうで、必死で、絶望しきってて、つらい。こんな気持ちでヒルが晩年を過ごしていたのかと思うと尚つらい。

ワンダーランド / アウグスト・ストリンドバリ

今回の展覧会のキービジュアル。小説家として知られるストリンドバリ(知らん)は、創作家として絵も熱心に描いた。

ワンダーランドって名前はどういう意味なんだろう。不思議な世界なのか素敵な世界なのか。でもきっとどちらもかな。水面に浮かぶ花びらの様子がとても綺麗。光溢れてるからやっぱり、素敵な世界なのかなあ。

この絵ももう一度じっくり観てみたい。

ちなみに、ストリンドバリは、小説家として風刺や社会主義的な作品を書き、フランスから国外退去を命じられたという経歴の持ち主らしい。そんなシニカルな人が描いた絵にしては綺麗で透き通っていて、人間の心理ってつくづく不思議だなと思う。

夜の訪れ / ニルス・クルーゲル

馬の尻がいい。馬の尻が。夜になるから馬も家に帰るのかもしれない。

夕暮れ時の幻想的な風景は世界共通なのだろうが、この沈んでいく太陽の周りの空の様子がとてもよい。少し不穏ででも綺麗な空の色がそれを覆い隠している。

この絵もめちゃくちゃ気に入って、ポストカード買いました。はい。

以上

ということで。スウェーデンの画家たちはフランスで修行した後、「スウェーデン独自の絵画を発展させよう」と(アカデミー自体はヨーロッパで一番早くにできたらしい)、印象派の影響を受けつつ、日常や自然に目を向けて、自然主義的、レアリスムを基本として描かれたらしい。なので、今回の展示も「北欧の光、日常のかがやき」というタイトルだし、その通り光の描写が綺麗な絵、日常の愛おしい営みを描いた絵に溢れていてとてもよかった。

近隣の方はぜひに。多分知らない画家だらけだと思うけれど、光が満ちていて幸福な時間を過ごせる。最後の人類は怖かったけど。

www.tobikan.jp

余談

シーズンオフの蓮池は汚い。

しかし、河津桜は海外勢にとても人気だったし、見て見てこの写真。

ウグイスちゃん。きゃわわわわわ。iPhone17(ノーマル)のデュアルカメラではこれが限界。pro maxならもっと精細に撮れるんだろうけれども。

 

 

 

わたくしからは、以上です。

 

【読書感想】本が読めない33歳が国語の教科書を読む / かまど・みくのしん

こちらの続編。

nagainagaiinu.hatenablog.jp

正確には続編というか同時進行っぽい感じなのかな。

前作とおなじで、本を読んだことがなかったというみくのしんさんが33歳にして国語の教科書で「やまなし」「少年の日の思い出」「山月記」「枕草子」を読んだ記録。

みくのしんさんは国語の時間に当たらないように祈って過ごしていた、高校の国語の授業はプリントを配られ、一言一句同じ問題が出るので文字を覚えるだけで及第点がとれた、など、これまで国語の授業で小説や随筆を読み、理解するという経験がなかったということ。

前作と同様、みくのしんさんの音読・感想・心の叫びに、かまどさんがツッコミを入れたり細くしたりして、今度は教科書を読んでいく。

小学校の教科書から「やまなし」、中学校の教科書から「少年の日の思い出」、高校の教科書から「山月記」と「枕草子」を読んでいく。

たまたま図書館で予約の順番が回ってきただけなのだが、たまたま今読書迷子で本を読もうという気が起こらなかったところだったので、「この本を読めばまた読書がしたくなるはずだ」と思い、返す順序が一番遅い(3冊借りてる)のにいの一番に読み始めた。

 

<ネタバレあり感想>

すごすぎる、やっぱみくのしんさんの読解力はすごすぎる。とりわけ時間や景色の解像度画高すぎて、筆者の少しの言い方の違いを読み取ったり(枕草子の「山際と山の端を読み分けられる解像度)、場面場面がみくのしんさんのおかげで目に浮かぶように、そこに自分がいるような没入感で読書を一緒にしていくことができる。

そして、やはり言語化能力がものすごく高い。その一文を読んで感じたことをきちんと説明できるし、風景描写を「こんなふうに読んだ」というのを本当に伝わる言い方で伝えてくれる。

こんな読書ある?って本当に思う。
読書に慣れてきたからか、文章の単語の意味がわからなくても、何を言っているかわかる能力が身についていて、とくに枕草子なんか古文なのに、文法も単語もさっぱりわからないはずなのに、「この景色俺も好き」という共感などを持ってほぼすべての文章を多少のニュアンスの差こそあれほぼ正確に読んでいた。

すごすぎる。枕草子でこんなに感動する人がいるなんてなあ。

ところで山月記って本当に切ない小説だ。みくのしんさんが李徴に「人間に戻れることを諦めるな」って何度もいうし、人間に戻れるバージョンも欲しいというようなことも言っていたけれど、本当これ高校生に読ませて何を伝えたいんだろう。絶望に打ちひしがれて「たとえ虎になったとしても、また人間に戻ってやり直せる」って方が教条的だしいい気もするんだけど、「虎になっちゃうぞ」って脅すやり方はどうなんだ。って、文学的価値の高い作品を読ませてるってだけなんだろうけど。だってこれすごい小説だものね。

それはそれとしてあとがきでかまどさんが、小学校時代の思い出を振り返る。「やまなし」の「クラムボン」は「泡のことだ!」と世紀の思いつきをして発表しても先生の反応はパッとしなくて、同級生が「カニの兄弟がもう一匹いて死んでしまったそのたましいがクラムボンだ」と主張したら先生がよい反応をしたと。それ以来国語の授業が嫌いになって、得意だが嫌い、という状態になった。
高校時代に古文を友達に教える時にコント形式で教えていたという話は面白くて、「文章の解釈なんて人それぞれだし、正解なんかあってたまるか」みたいな考えをしていたらしいのだけれど、みくのしんさんが「枕草子」の「つきづきし」の解釈を間違えていて本来の意味を尋ねられたので答えたところ、そこに大パノラマの景色が広がっていたと。そんなこと知らなかったと。

わたしもそんなこと知らなかった。わたしも本の解釈なんて人それぞれでいいし正解なんかあるかい、と思っていた。単語だって好きに読めばいいと思っていた。もちろんテクニックとして国語の点数をとることはできたし、小説を読んでいて「ああこの一文が言いたくてこの小説を書いたんだな」と気づくこともある。

でもそうだよね。筆者の人は一言一句を吟味して吟味して書きたいことを表現しているわけだから、言葉の意味が正確に理解できれば、そこには広大な意識の海があるはずなんだ。

 

まあとにかく。
また本を読もう、読みたい、こんな風に豊かな読書をしたい。
そんなことを思った一冊になった。

読書迷子の人、読書量を追い求めてしまう人に特におすすめです。

 

わたくしからは、以上です。