遠心分離機

文体の練習

深掘りしなくても十分さびしい「風の歌を聴け(村上春樹)」今更読んでいく

さびしい

さびしい。理由は人の数だけある。恋人と別れたばかりでさびしい人、リモートワークで人と会えなくてさびしい人、単身赴任でさびしい人、友だちが作れずにさびしい人。
そして理由の数だけ解決法もあるはずだ。すぐに次の恋人を作ればいいし、飲み会でも企画すればいい。そんな会社辞めればいいし、究極的には友だちなんて要らないことに気付けばいい。

でも何をしても癒えない孤独もある。そんなときに、もっとさびしくなれる小説、それが「風の歌を聴け」だ。

風の歌を聴け村上春樹

風の歌を聴け」は村上春樹のデビュー作で、良きにつけ悪しきにつけ、純文学界隈に鮮烈な風を吹かせた。そしてこの作品に「芥川賞」を与えなかったことを、芥川賞黒歴史とする人たちもいる。

この作品を好きな読書家は多く、発表からすでに40年以上経過しており、さまざまな考察がなされている。もちろん中にはただのこじつけにすぎなかったり、読者の願望だったりするものもあり、でもだからこそ幅広い層からの熱い支持を感じる。

ざっぱなあらすじ

1970年の8月、夏休みで東京から帰省している「僕」とその友だち「鼠」はいきつけのジェイズ・バーでただただひたすらにビールを飲んで過ごしている。
あるときジェイズ・バーで酔い潰れていた女の子を送っていくことで、物語は動き出す。「僕」はこの女の子(左手の指が4本しかない女の子)との関係を深めて行く中で、過去に自分を通り過ぎていった女の子たちのことを述懐する。
一方で相棒の鼠は多くの苦悩を抱えている。家が大嫌いな金持ちであること、小説を読んでみたがひたすら意味がなかったこと、女の人との関係。そして「僕」にそうした悩みを打ち明ける。
そういう風に夏休みを過ごし、終え、「僕」はそれらのすべてを手放して、日常に戻って行く。三人は、それぞれがそれぞれの人生を歩いていく。

巷の考察(ものすげえネタバレしまくりです)

(ここめんどくさい人は、わたしの感想だけでもお読みください。

巷で有力とされている説

三角関係説

左手指が4本の女の子は鼠の元カノで、妊娠し、中絶したのは鼠の子どもである。それとしらず左手指が4本の女の子としたしくなった「僕」との、実はちょっとした意図せぬ三角関係だったとする説。

その根拠は、「鼠」が「誰か女の子にしたジョン・F・ケネディの話」を「その4本指の女の子」が「僕」に話したということ。

これは絶対にあり得ないとわたしは思う。なぜなら、作中で、こういうシーンがあるからだ。

「あなたの電話番号を探すのに随分苦労したわ」
「そう?」
「ジェイズ・バーで訊ねてみたの。店の人があなたのお友達に訊ねてくれたわ。背の高いちょっと変ったよ人。モリエールを読んでたわ。

これは、指が4本の女の子が「僕」に話した内容だが、「僕」の友達の「背の高いちょっと変った人」は鼠のことなので、元恋人に現恋人候補の電話番号を教わったことになる。そんなことあるわけなくない?

はい、終わり。

仏文科の女の子とのことで傷ついた「僕」が救われていくための物語話説。

小説の中の主人公の述懐にはたくさん物語の鍵が散りばめられている。その中で、「三人目に寝た仏文科の女の子」は自殺してしまう。そのことで「僕」はひどくかなしみ、そのかなしみを癒していく過程を描いた物語なのだという説。そしてこの三人目の女の子は「僕」の子を妊娠したまま自殺したとされるのが主流のようだ。

「妊娠していた」という記述はどこにもなく、その説を唱える人たちが根拠とするのが、次の場面だ。

「何か食べ物は無いかな?」僕は彼女にそう訊ねてみた。
「捜してみるわ」
彼女は裸のまま起き上がり、冷蔵庫を開けて古いパンをみつけだそ、レタスとソーセージを作り、インスタントコーヒーと一緒にベッドまで運んでくれた。それは10月にしては寒すぎる夜で、ベッドに戻った時には彼女の体は缶詰の鮭みたいにすっかり冷え切っていた。

ここの「缶詰の鮭」というのが、三人目の女の子が体に子を孕っていたことのメタファーなのだとするのだ。
だとすれば、地の文は「僕」が主語なので、「僕」はすでに彼女の妊娠に気づいていることになる。

三人目の相手は大学の図書館で知り合った仏文科の女子学生だったが、彼女は翌年の春休みにテニス・コートの脇にあるみすぼらしい雑木林の中で首を吊って死んだ。彼女の死体は新学期が始まるまで誰にも気づかれず、まるまる二週間風に吹かれてぶら下がっていた。今で日が暮れると誰もその林みは近づかない」

二週間まるまる気づかれなかったということは、「僕」はすでに恋人でないことが分かる。付き合っていたなら、彼女と二週間以上まるまる会わないのも不自然だし、妊娠してることはすでに分かるはずだし、その辺りに触れられていないことが不自然すぎる。

さらに小説内ではこう綴っている。

なぜ彼女が死んだのかは誰にもわからない。彼女自身にわかっていたのかどうかさえ怪しいものだ、と僕は思う。

「僕」目線では「自殺の理由」がわからないとされている。「妊娠していた」としたら、こんな言い方にはならないだろう。

 

ただ、この三人目の女の子には特別な思いを寄せていることは小説の中できちんと匂わされている。というのは、誰のことよりも、この子のことを思う時間(分量)が多いからだ。このことは念頭に置いていいだろうと思う。

鼠主人公説

なんてものまである。

いや、とにかく寂しいだけの小説なんだよ

そんな深掘りしないでいいです。

ここまで見てきたように、人によって考察も異なる。そんなの小説なんだから、どれだってそうだ。そして、そんなところまで考察しているのは、どう考えても村上春樹ファンかアンチかのどちらかだ。

けれど、そこまで深掘りしなくても十分にこの物語は、書かれてる文章それだけですでに完成しているし、そのことを存分に楽しめる小説だ。この小説なめんな!

というわけで、ライトに読んでいきます

主人公が自分の人生を遠くから眺めている

この作品の主人公「僕」は、幼少期に喋らな過ぎて専門家のカウンセリングを受けたり、また年をとって「すべてを数で置き換える」「言いたいことを全部は言わない」といった自分内実験をしてきたことが書かれている。それを通して、「自分」と一旦距離を置いて「自分」のことを考えるようになっている。
この「自分の人生への不参加」というか「自分の人生への没入感の無さ」がこの小説のもつ「さびしさ」の基本となる。

かと言って超ドライな性格をしているわけではない

まず、「僕」は、自分を必要以上に客観視しているだけで、決してドライではない。

カリフォルニア・ガールズを貸してくれた女の子

ラジオをきっかけに思い出したレコードを高校の同級生の子に返すために、わたしならやらないくらい、かなりの必死で住所や連絡先を探す。結局見つからなかったが、ベストを尽くしていると言える。ただの「ドライ」な性格だったらここまでの労力をかけないだろう。

3人目の子(仏文科の女の子)

この小説の中で繰り返し出てくるこの仏文科の女の子。それだけで特別な存在と分かるが、「僕」におそらく自覚は無いのだろう。
この彼女について、次のような一節がある。

「ねえ、私を愛してる?」
「もちろん。」
「結婚したい?」
「今、すぐに?」
「いつか、……もっと先によ。」
「もちろん結婚したい。」

「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。」
「言い忘れてたんだ。」
「……子供は何人欲しい?」
「3人。」
「男? 女?」
「女が2人に男が1人」
 彼女はコーヒーで口の中のパンを飲み下してからじっと僕の顔を見た。
「嘘つき!」

 と彼女は言った。

 しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった。

この嘘については、「愛してることが嘘」「子供が欲しいが嘘」と、諸説あるのだけれども、わたしは素直に「愛していることが嘘」の立場を取りたい。そしてこれはトートロジーになる自覚を村上春樹がしていたかまでは分からないのだが、この場面はこうだ。
「もちろん(愛してる)。」と嘘をついてでも一緒にいたいほど、「僕」はすでにこの子のことを「愛している」のだ。
ただの「ドライ」な性格だったら、ここで関係を保つためだけの嘘はつかないはずだ。

左手の指が4本しかない女の子

介抱したあとの気まずい時間を乗り越え、「僕」は4本指の子と親しくなり、お互いに好意を寄せるようになる。「僕」は、女の子のわがままな要求にも応え、悩みを聞けば労るようになる。ただの「ドライ」な性格だったら(略

鼠の悩み

鼠がジェイズ・バーになかなか顔を出さなくなり、「僕」は心配する。ジェイに言われ、「僕」は鼠を誘ってプール、ホテルのバーに行く。泳ぎながら、空を見ながら、飲みながら、鼠とさまざまな話をする。ただの「ドライ」な性格だったら(略

これらのエピソードで綴られたすさまじいさびしさ

3人目の女の子(仏文科の女の子)

「愛してる?」と訊かれ「もちろん」ととっさに嘘をついてでも一緒にいたいくらい愛していた(トートロジー)女の子。そうすることで二人でいれると思っていたのに、別れ、さらにそのあと女の子が自殺をしてしまう。理由はわからないとされているが、この小説に何度も出てくるほど大好きだったはずの恋人と、決して分かり合えてはいなかったのだ。

4本指の女の子

少しは心を通わせたのかと言えば、「僕」本人はそう感じていたのだろうと思う。だからこそ「冬にはまた帰ってくるさ」と伝える。だけれど、冬に戻ってきたときにも4本指の女の子を探そうとするが、どこにいったかはもう分からなかった。そりゃそうで、「僕」は好きだとも愛してるだとも一言も好意を表していない。それが「僕」目線だと、お互いを許し合えたはずなのだが、決して心は通い合っていなかったのだ。当たり前だ。けれど「僕」にはそれだけが精一杯で、それだけで十分に好意をわけ合えたと思っている。

「僕」は鼠の話をじっくりと聞いた。飛行機が好きであること、古墳のこと、これまでのこと、小説を書こうかと思っていること、女の人についての悩みを一度は相談しようと思ったこと。でもその理由はわからない。
「僕」は頷き、相槌を打つ。
そして最後にはこんなやりとりをいている。

「でもね、よく考えてみろよ。条件はみんな同じなんだ。故障した飛行機に乗り合わせたみたいにさ。もちろん運の強いのもいりゃ運の悪いのもいる。タフなのもいりゃ弱いのもいる、金持ちもいりゃ貧乏人もいる。だけどね、人並外れた強さを持った奴なんて誰もいないんだ。みんな同じさ。何かを持ってるやつはいつか失くすんじゃないかとビクついてるし、何も持ってないやつは永遠に何も持てないんじゃないかと心配している。みんな同じさ、だから早くそれに気づいた人間がほんの少しでも強くなろうって努力すべきなんだ。振りをするだけでいい。そうだろ? 強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間がいるだけさ。」
「ひとつ質問していいか?」
 僕は肯いた。

「あんたは本当にそう信じてる?」
「ああ。」
 鼠はしばらく黙り込んでビール・グラスをじっと眺めていた。
「嘘だと言ってくれないか?」
 鼠は真剣にそう言った。

これらの言葉は、「僕」の本心なのだろう。そして鼠とまったく異なる価値観を表しているのだろう。ここは価値観の決定的な違いを表していて、別に「実は」でもなんでもなくさびしい描写なのだが、ここにさらに次のようなジェイとのやりとりが加わる。

「話せたかい?」
「話せたよ。」
「そりゃよかった。」

「僕」はここでも分かり合えたつもりでいるのだ。本当には違いが浮き彫りになっただけなのに。

トピックセンテンスによる回収

たとえようのないさびしさ

さて、この小説のトピックセンテンスは満場一致でこの一節になるだろう。

あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。
僕たちはそんな風にして生きている。

先ほど見ていたすべての「さびしさ」はこの主題の提示によりすべて回収される。こうした価値観が「僕」の根底にあるから、「僕」は永遠に誰とも分かり合えない。そしてそれを「そういうもの」として捉えているので、そこにはもはやさびしさなど感じていない。むしろ分かり合えたとすら思う。そこが、この小説の提示するものすごいさびしさだ。「さびしさに気づかず、大事な人と分かり合えたと思って」生きている。生きていく。

「生きることの無価値性」「誰かとわかりあうことの不可能性」「それでも生きていくことのむなしさと確かさ」それらを「僕」は意識せずに所与のものとして受け入れてすぎている。

風の歌を聴け

この「風」は素直によめばトピックセンテンスにある「そんな風にして生きている」の「風」だろう。そうした寂しい世界の中で、聞こえてくる小さな「風の歌」を、聴け。

ね、さびしかったでしょ!

さあ、手に取って。

余談

「風」という漢字がこの小説では49回登場する。もちろん、「風(かぜ)」「風呂場」「潮風」などという意味で出てくる「風」もめちゃくちゃある。しかし実に25回以上の「風」が「そんな風に」「こんな風に」「あんな風に」などといった「風」であり、これはかなり多い。ためしに吉本ばななの文庫の「風」回数を数えると、10個も行かないし、「〇〇な風に」という使われ方はしない。これは村上春樹の独特の文体を独特たらしめている理由の一つだろう

ちなみに村上春樹にどっぷりつかっていたわたしは「〇〇な風に」という表現を使いまくる。それが村上春樹のせいだと気づいたのはつぎ先月のことだ。