穂村弘の自選短歌集。
穂村弘は他の著作で読んだ限りだと、本人曰く、かっこつけて短歌を作っているところがあるらしい。確かにかっこつけてるのかなと思うものもある。ただでもただただ巧いなと思う。わたしなんかがそんなこと言っても説得力も何も無いが、なんか手練って感じのする歌集だった。
口語短歌は今ではすっかりメジャーだけれど、なんか空気感が他と違うように思う。でもそれはどの時代を生きてきたかということも多分に関係しているのでは無いかと思う。あの時代を駆け抜けた人ならではのセンスなんだと思う。たぶん、わたしたちが真似をしようとしても、真似にしかならないに違いない。
気に入った短歌をいくつか。
水銀灯ひとつひとつに一羽ずつ鳥が眠っている夜明け前
こういう景色が本当にあるのか分からないが、鮮明に想像することができる。鳥はひとつひとつに一羽ずつしか止まれない。逆を言えばひとつひとつに一羽ずつ止まっているわけなので、引きで見たら結構な景色だ。そしてその鳥たちはみんな夜明け前で眠っている。これから目が覚めて一羽一羽と去って行くのだろう。その前の「夜明け前」と言われる一瞬の時間を鮮烈に切り取った、しかし穏やかな景色だ。
交差点で写真を返す太陽の故障のような夕映えのなか
交差点で一体何の写真を返したのだろう。一緒に撮った思い出の写真なのだろうか、単に見せてもらった景色の写真なのだろうか。そして交差してまた別れていくわたしたちはどこか寂しく映るだろう。
「太陽の故障のような夕映え」という表現は、きっと誰もが初めて聞くのにきっと誰もにとって心当たりのある、頭の中のどこかにとっておいてあるはずの景色を表す。太陽の故障としか思えない、出鱈目に赤くオレンジ味の強い強烈な夕映え。
それはそれは愛し合っていた脳たちとラベルに書いて飾って欲しい
愛し合っているのはわたしたち、というよりわたしたちの脳たちだ。それを体現するのは身体だが、愛とは脳の現象だ。ここで「心臓」とせず「脳」としたところがよい。心は心臓にあるものではなく脳の機能だからだ。心はずんとするのだけれども。
それをラベルに書いて飾って欲しいくらい。「愛し合っていた」なのは、この後も永遠に愛し続けて死んでそれが過去形になるのか、今愛が終わって、だから今この瞬間のこの脳を飾って永遠にしたいのか、とか考えた。
などなど、他にも好きな短歌はいくつもあった。けど好きと思うやつより、これなんだろうと思う短歌を本当は鑑賞するべきなのかもしれないぞと少し思う。それこそが、穂村弘の魅力な気がする。わたしはわたしの好きなところをただ見出しているだけで、そこが本質では無い気がする。
また他の歌集も読んでみようと思う。