まぼろしスイマー(岡田奈紀佐)

まぼろしスイマー(岡田奈紀佐)

岡田奈紀佐さんの作品集。都会的でどこか客観的な短歌の中にときどき見える深い傷跡みたいなものが読者にも刺さる。世界を突き放しているのに欲しているというか。

少し感想。

手放したものに手向けるためでなくただ飾るために花を買う

これはダブルミーニングなのかなと読んだ。一つは本当に、ただ飾るために花を買ったという意味。もう一つは逆で、この短歌は言い訳で、本当は手放したものに手向けるために花を買ったのだという意味。この二つの意味は一見相反しているように見えるが、そうばかりでもない。人の行動は必ずしも一つの動機だけで行われるわけではないし、自分でも分からない動機が心の中に実はあったりするからだ。

いずれにしても、花を手向けられるべき手放したものというものが存在するということだけは確かだ。花を手向けるということは、それが大切なもの(や人)だったということ。人生は、そういうふうにしてさまざまなものを手放してあるいは突き放して進んでいく。振り向かない強さも必要で、そういう意味では手向けるためではなく花を買っていくこともあるだろう。けれどそのとき、逆説的に、手放したものを強く意識することになる。この両価性が人生なのだよなあと思った。

 

寂しさはそこにあるだけ草むらの名前の知らない草が揺れてる

そこにあるだけの「寂しさ」とそこにあるだけ(名前を知らないし知るつもりもない)の「草」。寂しさをあえて突き放して客観的に見ようとしているのかなと思った。逆を言えば、常に寂しさは自分の一部のようにここにあって、切り離さずにはおれないのかなと。でその寂しさは常に自分の中にあるのに、名前をつけないようにしているのかなとも。だから自覚的か無自覚か分からないけれど、すっごい寂しいんじゃないかって思った。

また、離人的でもあるのかなとも思った。自分自身を突き放している。寂しさを、名前も知らない草が揺れてる様子と並列することで、自分自身の感情の価値をほとんど無価値にしている。他人のような冷静な目で自分を眺めている、あるいは眺めようとしている。

でも逆に、だから力強いのかもしれないとも思う。生きていくためにそうしなければならなかったのかなと。そうして生きてきた強さも表れているんだと思う。

 

生きているつもりで買った早割の予約メールにスターをつける

生きていることが当たり前の人にはまったく意味の分からないというか多分実感が伴わない歌だけれど、数ヶ月後に自分が生きていないかもしれない人にとっては刺さる歌。「生きているつもり」でいることの困難さ。

「つもり」という言葉を使っていることからもわかる通り、数ヶ月後の自分が生きているかどうかは、自分の意思に依拠している。生きることも、あるいは生きないことも、自分で選び取れる場所にいる。そうした意味で、身体の病気など不可避な死がそこに待っているわけではない。

しかし選び取れるというのは物理的な視点から見た状況であって、現実にはえてして選びようが無いものである。今、数ヶ月後生きているつもりだとしても、本当に自分が数ヶ月後生きていられるかどうかは自分でも分からない。少なくとも今は生きているつもりでいる、ということでしかない。この心許なさ。自分の連続性が途切れるかもしれないそこはかとない恐怖。だけど希望を込めて、予約メールにスターをつける。その希望。

そう。未来のことを決めていくことは、希望であり祈りだ。切実な祈りの歌としてこの歌を読んだ。

 

という感じ。

 

この作品集は、短歌のほかに3篇のエッセイが収載されている。どれも深い絶望や隔絶感を抱きながら、それでも生きていこうとする意志を支えようとする心の動きが読み取れる。そう思いながらまた短歌パートを読むと、心に刺さるものがあった。