岡野大嗣にハマったのだという話をする回

実はわたしは短歌を作ることがある。下手の横好きの横好きの横好きくらいの下手くそなものなんだけれど、言葉を使って何かを表現していくことは大変楽しい。まあブログやってるくらいだから言葉が好きなんだ。

寡作で紹介できるものもあまりないが、たとえばこんな歌を過去に作った。

-思い出せミジンコっだった頃のこと理由もないのに生きていたかった

-Memento Mori(死を想え)って言われても死は想うほど遠くもないし

-明滅するぼくらの命は暗闇で他の命の目印となる

など。

それで短歌を作るのが好きなのだけれど、読むのも好きなのだ。人の作った短歌を浅読みして好きになって深読みしてもっと好きになっていく。自分の作る短歌にもきっと深みを与えてくれるはずだ。はずなんだ。
だから先日丸善まで行って歌集のコーナーを見た。
岡野大嗣「うれしい近況」素敵な想定でジャケ買いである。

さっそく鑑賞する。

さびしい。この人どんな孤独を抱えてるんだろうと思う。さびしい短歌が本当にうまくて、胸の詰まるような短歌が並ぶ。かといって暗いわけではない。ただたださびしいのだ。

そして購入から二日後、わたしはまた丸善にいた。言わずもがな。岡野大嗣の歌集を買うためである。第三歌集「音楽」。はい、購入。

鑑賞。

やはりさびしい。音楽にまつわる短歌が多いのだけれど、やはりさびしい歌が多い。「うれしい近況」と比べると字余りと句またがりが多く最初少し読みにくい気にもなるんだけれど、読み進めていくとどんどんさびしくなる。でもそうでもなく明るい様子の歌もよい。とにかくよい。

 

見ていく。

第三歌集「音楽」

音楽

音楽

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君が書くものをわかりたくなりたい月をなぞってなぞっては泣く

「わかりたい」んじゃなくて「わかりたくなりたい」なのだ。「わかりたい」とは思えていない。けれど「わかりたくなりたい」ということはそれなりの関係性にあるもしくはそれを望んでいるのであって、それなのにわかりたいと思えていないということがたまらなくさびしい。よくあることできっと、だからさびしい。

前が見える程度に下を向いて歩くときどき前が明るくて見る

ああわかりみが深すぎる。わたしも基本下を向いて歩いているのだけれど、それは前が見える程度に下を向くという表現がぴったりだ。そうして夜道などを歩いていると、前が明るくて見るということがときどき起こる。ただそれだけのことなんだけれど、このさびしさ。何もずーっと一人で下向いて歩いていたわけではないのだ。友だちや恋人と楽しく話して別れたあとであったり、それこそこの歌集ならライブで音楽を楽しんだ帰りであったり、そうした時間のあとに一人になって、一人だから下を向いて歩く。そのさびしさ。すごい。それでもときどき前が明るくて見る。まだ光を感じれるのだ。なのでやはりまたさびしい。

お湯になるまで流してしまう水 涙にもその段階がある

はあこういう切り取り方よくできる。ホントすごい。涙にも確かにその段階がある。お湯になるまでには少しいや結構時間がかかる。泣いてしまうようなとき、そうやって適切な温度になるまで泣き続けてしまう。そういう段階がある。この世界の解像度がすごい。さびしい。

赤が好き ライブ帰りに来た道を雑にたどって待つ信号の

さびしい歌の中にこんな歌もある。これはライブのワクワク感がまだ心に残っていて、赤信号で立ち止まるたびその余韻を楽しんでいる様子を描いているのだと思う。そういうのって少し分かる気がしていて、わくわくしたまましかしちょっとさびしいんだよね。で、そのさびしさも含めてライブの醍醐味であったりとか。さびしい。

第四歌集「うれしい近況」

 

 

誰だろう毛布をかけてくれたのは わからないからしあわせだった

これどういうシチュエーションなんだろう。毛布をかけてくれた人がわからない状況ってちょっとわからない。おかあさんかおとうさんかわからないとか、こいびとか配偶者か子どもかわからないとか、そういうことなんだろうか。それでも、この歌のやはりさびしさがたまらない。「誰か」特定の人からの優しさはつらい。こわい。だから相手を特定できない段階において、しあわせを感じてしまうのだ。さびしい。

待っていたバスが視界にきたときの「逃げなくちゃ」って感情のこと

バスを待っていたということは、どこかへ行くかどこかへ帰るかのどちらかだ。どちらにしろ、何かや誰かが待っている。だから逃げなくちゃと思う。どこにも辿り着きたくない、どこにも帰りつきたくない。何にも誰にも自分を許すことなんてできないのだ。さびしい。

人が嫌で人が好きだな降る雪に手を差し伸べてしまう感じに

なんちゅーストレートな歌を。でも少し前向きな歌。雪に手を差し伸べてしまうとき、人の心は少し明るくなる。「人が好きだな」を後ろにしているところもそのまんまポジティヴだ。さびしさの気配は少し薄まる。この歌がこの歌集にあることの意味は大きい。

あなたとの電話をラジオと呼んでいた 私書箱に死があふれる夜は

押し当てる頬(生きていて)オレンジのランプまばゆいまばゆい窓に

きみだけはずっとケータイって呼びそうなそれを思って泣きそうになる

あーもうすごい。解釈しない。各自で味わってくれ!

まとめ

この人の持つさびしさが少しは伝わっただろうか。さびしいことをさびしいということは簡単だ。さびしいことを、そうと言わず表現できることに、意味があるのだ。
というわけで、さびしんぼのわたしは岡野大嗣にどハマりしたのでしたという話をしたかっただけの回。

ではまた次回。ばいばい。