「キュンとしちゃだめですか? 」( 益田ミリ)を読んで考えた男女の発言の適否の非対称性について

2009年11月号から2013年5月号までの別冊文藝春秋に掲載されたミニエッセイ。
毎回、「キュン」ときた場面についてイラストと少しの文章で綴ったもの。

最近読書をしていなかったので、復帰のために何か軽いものをと手に取った一冊。内容は無いよう。失礼……。しかしこの中身の無さがリハビリにはちょうどいい。

「キュン」と言っても読んでみればどちらかというと「キュン、好き!」というより「かわいらしい」という気持ちのようで、実際本人も「あとがきにかえて」という漫画で「若い男子と付き合いたいわけでもないんです」「恋でも性でもなく、なんだかキュンとする」「ただキュンとするだけ」と書いている。

ここからはこの本の内容の話ではない。この本の存在について話をしたい。

この本が、男女逆だったとしたら許されるだろうかということについて考えたい。つまり、たとえば「ドキっとしちゃだめですか?」とかそういうタイトルで男性が書いていて、たとえば「コンビニで小銭がなかなか取り出せない女の子にドキっとするがんばれ」とか「やたらかわいいのに字が汚いとドキッとするの俺だけ?』とか書かれていたとしたら、ある種の女性は怒るんじゃないだろうかと思うのである。

なぜ女性なら許されるのか。この非対称性がわたしは結構気になっている。
たとえば男性が言うことはすべて性的な意図を含んでいるからダメとか言う人がいるかもしれない。「セーラー服かわいい」「女の子が髪をかきあげる姿が綺麗」とかがダメだとして、じゃあ女性が「学ランの男の子セクシー」とか「大人の男性の腕の血管素敵」とか、そういう発言をしたらどうなるのだろう?それが、許されるのだ。男性?許されないのだ。

こうしたことの積み重ねが、先日のフリー女子アナ契約解除問題と地続きなのだとわたしは思う。一部の女性がさんざん男性の発言をあげつらい、表現を規制し、イベントを規制し、炎上を起こしまくってきた結果、女性にそれが跳ね返っただけだ。わたしは個人的には「いやクビはやりすぎでしょ」と思ったが、それがみんなが望んだ世界なんだよ、受け入れろと思う。この不自由な世界が、アンサーなんだよマジで。

 

などということを考えた。本そのものは別にいいも悪いもない。軽いノリでサラッと読めるので気楽に読めた。