岡野大嗣の歌の感傷はどこからやってくるのか考えてみた

以前こんな記事を書いた。

nagainagaiinu.hatenablog.jp

わたしの趣味の一つとして短歌を挙げたいのだが(願望形なのは下手すぎるから趣味と言っていいのか悩ましい)、自分が作る以外にも当然人の作った短歌を読むのも好きなのだ。
そして、現存する歌人でもっとも好きなのは岡野大嗣なのだ。なのだ。
理由としては一番はやはり孤独の切り取り方のうまさだと言える。どれだけの孤独を抱えてるんだ一体……と絶句するような歌がある。

流れないなみだのようにたまるから右折レーンにいるとさびしい

(たやすみなさい)

きみの書くものをわかりたくなりたい月をなぞってなぞっては泣く

(音楽)

誰だろう毛布をかけてくれたのは わからないからしあわせだった

(うれしい近況)

最後の一首で孤独を感じない人もいるかもしれない。が、読み込めばこれほど端的に孤独を表している歌は無いだろう。この歌では主人公は特定の誰かからのやさしさを拒絶しているのである。誰が毛布をかけてくれたのか知ってしまったら、しあわせでなくなるかもしれないのだ。こんなさびしいきもちある?

また、強烈な疎外感も目を見張るものがある。

(ささやかな落胆)ニュース速報のすべては僕に関係がない

(サイレンと犀)

もう無いドトールのあった駅前のあった頃よく笑ってた角

(音楽)

音ゲーの上級みたいに過ぎていく夜景のどこになら生きられる?

(うれしい近況)

そして、それとは逆に世界を拒絶している歌もある。

神にアテレコされてんじゃないかってくらい綺麗に吐いている嘘

(サイレンと犀)

良く撮れた写真を誰にも見せないで消す そうやって記憶する春

(音楽)

待っていたバスが視界に来たときの「逃げなくちゃ」って感情のこと

(うれしい近況)

とここまで見てきたように、岡野大嗣はひとりぼっちのさびしい感じを表現するのがうまい。阻害され拒絶してきた世界をにくむでもなく許すでもなく。

逆に、生きることの温かみを表現した歌もある。

散髪の帰りの道で会う風が風の中では一番好きだ

(サイレント犀)

ちょっとそこまで、と思って出た夜にパーカーが頼りなくてきもちいい

(たやすみなさい)

つぶれてたクリームパンをカバンから出す今日ずっと楽しかったな

(音楽)

寂しい中にあってこうした曲が活きる。
まあなんていうか、人の感情を切り出すのが上手い人なんだろう。

さて、今回は少し別の話をしたい。感情を切り出すという意味では同じことなのだが、ちょっと違ったアプローチをしていく。

岡野大嗣の短歌はよく「経験していないのに経験した気になる」と言われることがある。はずだ。何かで読んだのだが何で読んだのかを忘れたので確証はないが、それは読んでいる自分の実感としてもある。

たとえばこんな歌だ。

ひとりだけ光って見えるワイシャツの父を吐き出す夏の改札

(サイレンと犀)

屋上にあったな小さな観覧車記憶をたよりにしてうれしがる

(たやすみなさい)

よく晴れた夏をゆったり曲がってくバスのすみずみまで蝉の声

(音楽)

ない家の間取りをああだこうだしてこの夜更かしは売り物になる

(うれしい近況)

どれも実際には経験していないのに、実際に経験したかのように懐かしかったり胸が苦しくなったりする歌だ。

なぜそんなことが起こるのかを考えた。

考えられる理由の一つは、場面の切り取りのうまさ、描写力の高さだ。つまり、これらの歌は誰が読んでも一意になり、完璧にその体験をトレースできるようになっているのではないかということ。
岡野大嗣のこれらの短歌の描写力にいては疑いようも無いが、それが理由でこんなに胸が締め付けられるわけではないだろう。というのは、読者の体験するそれが与えられたものをトレースしているだけだったとしたら、「あるよね」という共感は産むかもしれないが、実感を伴った自分の中のうちなる郷愁が湧き起こるわけではないからだ。

では何が理由なのか。それは場面とか出来事ではなく感情の切り取りのうまさなのだとわたしは言いたい。
どういうことか説明しようとするとちょっとややこしくなる。
まず、岡野大嗣の短歌がAという場面を提示してBという感情を描いているとする。そうすると受け取った読者はBの描き方があまりに鮮烈なので自分の記憶の中のBという感情を沸き起こさせられ、自分の記憶の中のBという感情を伴ったCという出来事を無意識で思い出す。つまり、岡野大嗣の短歌は、AだからBという道筋で読者に感傷を与えるのではなく、Bという感情のみを与えてCを想起させそれによって読者にBという感情をよりリアルな実感として与えるので読者はAを懐かしく思うのである。読者はCによってBを強くしているのに、提示されたAについてその感情を抱いていると思い、それゆえにAを経験したことのように感じるのだ。ついてこれただろうか。

具体例を挙げたい。さきほど挙げた例の中の一首目で考える。

ひとりだけ光って見えるワイシャツの父を吐き出す夏の改札

夏に駅でお父さんが会社から帰ってくるのを待っている歌だ。たくさんの人が降りてくる中、お父さんのワイシャツだけが光って見えてお父さんだと分かるという、ノスタルジー全開の歌だ。
読者はこの歌を読んで、お父さんを駅の改札で待ってた記憶などないのに、待っているときのそわそわした感じやお父さんが出てきたときの安堵感を実感を伴って認識する。
これがなぜなのか、という話なのだ。
まず、この歌は「そわそわした感じ」「安堵感」の切り取り方が見事なので読者はそれを受け取る。その結果、脳がそうした感情と結びついた記憶を無意識下に呼び起こす。わたしの場合、それをあえて意識的になって認識するとすると、昼下がりに仕入れに行ったお父さんの帰りを待っているときに外からお父さんのバイクの音がブルルルルルと聞こえてきて家の前で止まった、という記憶が呼び起こされてる。こうして記憶が呼び起こされることにより、「そわそわした感じ」「安堵感」によって郷愁を呼び起こされ胸が苦しくなる。
ここで終わりではない。この記憶の想起が無意識下で行われることによって、こうした郷愁は確かに記憶から引き起こされたものであるのに、まるでこの歌の情景から引き起こされたかのように感じてしまう。なので、この歌に描かれている、経験したこともないはずの出来事で懐かしく、苦しくなっているように錯覚してしまう。お父さんを改札で待っていた記憶などないのに、あたかもそれを経験したかのように感じてしまう。他人事ではなく自分ごととして認識する。「ああそういうことがあったのね」ではなく「ああ懐かしい、苦しい」となるのだ。ついてこれただろうか。

もっとも、これを実現するためには、やはり描写の力は必要である。つまり、実力がいる。
岡野大嗣はすごいということ(結局それ)。

 

って書いててでもこれ結構普通のこと言ってるだけだなと思ってきた。きっと短歌をやっている人はそんなこと先刻承知の上でやっているんだろう。やっと気づきました、実感を伴って。Aを提示してBを想起させCを呼び起こしBに実感を与えAを反芻する。なるほど。

しかしそうしてくると、AだからBだけを言う歌はいい歌なのか問題がここで浮上する。しかしそれは本稿の主旨に合わないのでまたの機会に考えることしよう。

 

だがこうした岡野大嗣の「切実さ」はどこからくるのだろう?彼は、「生き延びる」という言葉を使う。

生き延びるために聴いてる音楽が自分で死んだひとのばかりだ

(サイレンと犀)

生き延びてたいなと思う 憧れて高速道路の夜はきれいで

(音楽)

いきのびる singer/songwriterのニュアンスで朝/夜をむかえて

(うれしい近況)

これは穂村弘に対する反乱ととっている。穂村弘は「生き延びる」と「生きる」を明確に分け、「生きる」を重視している。短歌は「生き延びる」ためのものではなく、「生きる」ためのもので、「生きる」を詠まなければならないということだ。
これに対して岡野大嗣は「生き延びたい」と詠う。「生き延びる」というのは「生きる」の前段階だ。息をして、水を飲んで、ご飯を食べて、お風呂に入って、眠る。「生き延びたい」というのは、そこすらも脅かされていることを表している切実な願望だ。とにかく「生き延びる」ことで精一杯なのだ、「生きる」まで至らない、ギリギリのところで生きているのだ。なんなら死ぬ可能性だってあるのだ。
そのくらいの「ギリギリ」の命の切実さ。それが読んだ者の琴線に触れるのだろう。美しいのだ。

ということで、また岡野大嗣について語ってしまった。「つつじ」が好きなこととかいろいろまだ話したいことはあるが、脈絡が無くなってきたのでここらでおひらき。では、次回。

 

音楽

音楽

Amazon

↓Xやってます↓

↓Blueskyの方が好きです↓

短歌上手くなりてぇな

mah_ (@assa-ghost.bsky.social) 2024-07-03T09:25:03.075Z

bsky.app