短歌のガチャポン / 穂村弘

穂村弘がいろんな短歌を紹介して読み解いてくれる本。「ガチャポン」というのは、何が出てくるかわからないワクワク感を表しているらしい。あまり誰の歌集を読もうかというのすらもわからない初心者にも優しい。とくに1900年代前半の短歌とか、どこから手をつけていいかも分からないので、いくらか読めてとても面白かった。感覚的には今とあまり変わらないんだなと思ったり、基本に忠実ではあるけれど結構今っぽい短歌作るなとか。

さて、雑感。
そもそも短歌の読み方だけど、わたしは結構書いてあることを書いてある通りに素直に受け取りがちなんだけれど、こうしてプロが書いた本を読むと読みが深くて、「え、書き手まじでそこまで考えてた?』っていうこととか「いやいや、こういう意味じゃん単に?」みたいなことがある。おそらく自分が作歌するときは、おそらくそこまで深く考えていないんだろう。反省すべき点である。
自分が人の短歌に感想をつけたり解釈したりするときは、あまり意味を断言して書かないようにしているつもり。それが本当に正しいか分からないから。だからプロの人が断言する解説を書いていると、すげぇなと思う。
また、本人の状況や環境を前提において読むというのは正しいのだろうか、間違っているのだろうか。たとえば結核療養中の人が恋歌を作ったとして、それは結核療養中であることを短歌鑑賞の前提において読むべきなのだろうか。そうすると、作った人の状況によって短歌の良し悪しは左右されてしまうのだろうか。

一方で短歌の読まれ方だけれど、作り手はどう感じるのだろう?「え、違うし」みたいなことも書いてあったりするんだろうか。
わたしは自分の作った短歌に誰かが感想をつけてくれるとき、どんな読まれ方をしてもそれほど気にしない。創作は、手を離れた瞬間受け取りてのものだと思っているし。そもそもあまり深いことを歌にしていないせいか、致命的な誤読みたいなものをされたりもしないし、何か自分の意図と違う解釈をされても「ああ、そう読めるねたしかに」みたいな感じに思う。どれもこれもが勉強になるのでどんどん感想はもらいたい。だから前項で書いたような、断言される形式で短歌の解釈を受けた場合、それもまた勉強、と創作の糧にしていくものなのかもしれない。

さて、好きだった歌をいくつか。

くちづけをしてくるる者あらば待つ二宮冬鳥七十七歳

二宮冬鳥「忘路集」

なにこれめっちゃよすぎるじゃろ。
七十七歳になったが想像の範疇に入りつつあるジャストフォーティーのわたし。この短歌めちゃくちゃ良かった。いくつになっても女、とかそういう恋愛的な単純な話じゃなくて、自分の可能性の問題なのかなと思った。歳をとると可能性が狭まっていくように思えてしまうけれど、そうじゃない。心をオープンにしている限り可能性は無限で、それを信じることも誰に咎められるものでもない。そんなことを思った。

今日君が持ってる本を書いました もう本当のさよならなんだ

福島遙「空中で平泳ぎ」

そのままなんだけれど、だからこそそのまま心に届いた。
これまで借りれば済んだ本をもう借りることはできないから、自分で買う。そこに本当にさよならを感じる。
それまでの別れ話のあれこれが、本を買ったことによって現実のものとして確定したのだろうか。でもさびしいのは、別れる恋人の持っているのと同じ本を買うという感情の複雑さだと思った。だってそんなもの買えば嫌でも思い出すし。そもそも別れる相手もきっと好きだっただろうものを自分で買って所有するって、未練があるような逆にきっぱりしたような、やっぱ複雑だなあと思う。

あの友はわたしの心に生きていて実際小田原でも生きている

柴田葵「母の愛、僕のラブ」

「あの友」とは、今はもう会えていないんじゃないかと最初読んだ時は思った。だからわざわざ「小田原」という地方都市を設定したんじゃないかと。心の中に生きているとわざわざ言うくらいなんだから、楽しい思い出がたくさんあったり、何か恩を感じていたりするのかなと思うのだけれど、普段も会える人ならそんなこと言うかなと思ったのだ。
けれど読んでいるうちに、「ああ、結構年1とか年2とかで会ってる気がすんな」という気持ちになってきた。というのは「実際小田原でも生きている」のこの下の句が、これだけの文字列で活き活きと感じたからだ。だから作者はこの友達の最近のことも知っているんじゃないかなと思い、結構会ってるんかなという気がした。
仲のいい友達のことを、こんなふうに言えるの素敵だな(友無並感)

名も知らぬ小鳥来りて歌ふ時われもまだ見ぬ人の恋しき

三ヶ島葭子「我木香」

名前も知らない小鳥が幸せそうにさえずっているのを見て、これからする恋に焦がれているという歌。好きな人って、会う前から決まってるのよね。好きな人以外から好かれてもいやじゃんだって。でも好きな人には出会ったら問答無用でドキドキしてしまう。だから、好きになる人っていうのは会う前にすでに決まっていて、まだ出会ってもいないのに心の中で確かに好きなのだと思う。
そんな持論を思い出した歌。

 

と、わたしの読み方は作者のおかれた身体的社会的状況をまるっと無視しているので、穂村弘の解説を読むと「はぁ、なるほどそうなの」となった。でも自由に読んでしまう。自由に読んでしまうよね。

他にもたくさん素敵な歌がつまった一冊だった。とてもよかった。